「敷居が高いから行けない」——そう口にするとき、あなたはどんな場面を想像しますか。高級レストランや有名店に気後れする場面でしょうか。それとも、相手に申し訳ないことをしてしまって顔を合わせにくい場面でしょうか。実は、この2つの意味の間に「敷居が高い」の正誤が隠れています。文化庁「令和元年度 国語に関する世論調査」では、本来の意味で使っている人は29.0%にとどまり、56.4%が誤った用法で理解していることが明らかになりました。これは平成20年度調査(正用42.1%)から、正しい意味の認識が13ポイント以上も減少した数字です。この記事では、「敷居が高い」の本来の意味・語源・誤用が広まった背景・正しい使い方・類語との違いを、辞書の記述や文化庁のデータをもとに丁寧に解説します。
「敷居が高い」の正しい意味とは
「敷居が高い」の本来の意味は、「不義理や面目のないことがあって、その人の家に行きにくい」という状況を表す慣用句です。ポイントは「なぜ行きにくいのか」という理由にあります。高級だからでも、場の雰囲気が自分に合わないからでもなく、相手に対して申し訳ないことをした・義理を欠いた・恥ずかしい姿を見せてしまった、という心理的な負い目が前提にある表現です。
大辞林第4版でも「不義理・不面目なことがあったりして、その相手の家や場所へは行きにくい」と定義しており、さらに「〔近年『高級さ・上品さにひるんで行きにくい』の意で用いることがあるが本来は誤り〕」と明記しています。つまり、「高級なお店に気後れして入りにくい」という使い方は、本来の意味からすると誤用ということになります。
本来の正しい使い方の例
「長らく無沙汰にしてしまったので、あの方の家は敷居が高くなってしまった」
(=久しぶりに連絡を取っていなくて、申し訳なさから訪問しにくい)
「お礼を言い忘れたままだったので、あのお店は敷居が高い」
(=恩があるのにきちんと礼を尽くせていないことへの後ろめたさ)
この例文の共通点は、「自分が相手に対して何かしら申し訳ないことをした」という前提があることです。相手や場所に問題があるのではなく、自分の側に負い目がある——それが「敷居が高い」の核心です。
「敷居が高い」の語源・由来
「敷居」とは、玄関や部屋の出入り口に横向きに敷かれた木材のことです。引き戸や障子を受けるレールの役割を担っており、日本の伝統的な建築では欠かせない部材です。室町時代に書院造が発達した頃から一般に広まりました。
物理的に敷居が高いと、足をまたぎにくくなります。ここから転じて、「その場所に入ることへの心理的なハードルが高い」という比喩表現が生まれました。ただし、この「心理的なハードル」は、場所の格式が高いからではなく、「自分がその家の人間に申し訳ないことをしてしまった」という後ろめたさから来るものです。
たとえば、長年お世話になった店に借金を踏み倒してしまったとき、あるいは家族に心配をかけて連絡を絶っていたとき——「あそこの敷居はとても高い」という心理が働くわけです。これは義理・仁義・面目を大切にしてきた日本社会の人間関係の機微を表した言葉といえます。
明治期の文学作品でも、「敷居が高い」は借金や不義理を理由として行きにくい場面に使われており、こうした用法が慣用句として定着した経緯があります。
誤用の実態と辞書の変化
文化庁の「国語に関する世論調査」は、言葉の意味の認識がどのように変化しているかを定点観測している貴重なデータです。「敷居が高い」についての調査結果は以下のとおりです。
| 調査年度 | 正しい意味(不義理があって行きにくい) | 誤った意味(高級で入りにくい) |
|---|---|---|
| 平成20年度(2008年) | 42.1% | 45.6% |
| 令和元年度(2019年) | 29.0% | 56.4% |
約10年で正用率が13ポイント以上落ち込み、誤用率が10ポイント以上拡大しています。令和元年度の時点では、正しい意味で使っている人が3割にも満たない状態です。特に50代以下の世代では、誤用が多数派となっていることが調査で明らかになっています。
こうした実態を受け、辞書の記述も変化しています。2018年1月発売の広辞苑第七版では、従来の意味に加えて「高級だったり格が高かったりして、その家・お店に入りにくい」という用法が新たに追加されました。また、三省堂国語辞典でも②「近寄りにくい」③「気軽に体験できない」という用法が掲載されています。
一方で、大辞林第4版は「本来は誤り」という注記を維持しており、辞書によって扱いが異なります。言語の変化という観点からは、誤用が定着して新しい意味として認められていくプロセスの途中にある言葉といえます。
なぜ誤用が広まったのか
「敷居が高い」の本来の意味が誤解されやすい理由は、いくつかのポイントに集約されます。
「敷居」のイメージが視覚的に誤解を招く
「敷居が高い」という言葉を聞いたとき、多くの人は「高い敷居=格式の高い・立派な場所」とイメージします。老舗の高級料亭や格式ある会員制クラブの入口に、高くそびえる敷居——そんな視覚的なイメージが連想されるためです。「高い=格が高い・近づきがたい」という連想が自然に働くことで、本来の「不義理による行きにくさ」という感情的なニュアンスが見落とされます。
「義理・不義理」という概念が薄れている
「敷居が高い」の本来の意味の根幹にある「不義理」「面目がない」という感覚は、現代では日常生活でそれほど意識されません。人間関係が流動化し、「長年の恩義があって頭が上がらない」という関係そのものが少なくなっているため、言葉の元の文脈が理解されにくくなっています。「義理を欠いた相手の家に行きにくい」という状況が身近でなければ、正しい意味も実感として捉えにくいのは自然なことです。
「ハードルが高い」との混同
「ハードルが高い」という現代語は、「レベルや条件が高くて達成しにくい」という意味で広く使われています。「敷居が高い」と「ハードルが高い」はどちらも「入りにくい・達成しにくい」という感覚を表すため、意味上の混同が起きやすい状況にあります。特に若い世代では「ハードルが高い」と同義として「敷居が高い」を使うケースが増えていると考えられます。
誤用の累積
「高級で入りにくい」という誤用がメディアや日常会話で繰り返し使われることで、誤用が「正しいように聞こえる」状態になっています。「よく耳にする使い方=正しい使い方」と感じてしまう言語的な習慣も、誤用の定着を後押しした一因です。同様に誤用が広がっている表現として「役不足」があります。こちらも文化庁調査で過半数が誤用しており、「能力が足りない」という謙遜の文脈で誤って使われるケースが多い言葉です。
正しい使い方・シーン別例文
「敷居が高い」が正しく使えるのは、自分(または第三者)が相手に対して不義理・不面目なことをしており、そのために行きにくい・訪問しにくい状況です。以下のシーン別に例文を整理します。
長期間の無沙汰・連絡不足
例文
「卒業以来ずっとご無沙汰していたので、恩師のもとへは敷居が高くてなかなか訪ねられずにいた」
「お世話になったのに何年も連絡できていなかった。久しぶりに電話しようとしたが、敷居が高くて受話器を置いてしまった」
借金・金銭的なトラブル
例文
「以前お金を借りて、まだ返済できていない。あの家は敷居が高くて、とても顔を出せない」
「得意にしていた店で代金の支払いが遅れてしまってから、すっかり敷居が高くなってしまった」
礼儀・謝罪が済んでいない
例文
「酔っ払ってご迷惑をかけてしまったので、そのお宅には敷居が高い」
「ミスをしてご迷惑をかけた取引先に、謝罪に行かなければと思いつつも敷居が高くて足が向かない」
誤用になる使い方(参考)
本来の意味からすると誤用とされる例
❌「あの高級フレンチは敷居が高くて、なかなか入れない」
→ 相手への不義理がないのに「敷居が高い」を使っている
❌「専門書は敷居が高い印象があって手が出ない」
→ 「難易度が高い・近寄りがたい」という意味での使用
※ これらは「ハードルが高い」「格式がある」などに言い換えるのが正確です
「相手への申し訳なさ・後ろめたさ」が伴う文脈かどうか——それが「敷居が高い」の正しい使い方を判断するポイントです。
類語・言い換え表現との違い
「敷居が高い」と混同されやすい表現や、言い換えに使える言葉を整理します。
| 表現 | 意味・ニュアンス | 使う場面 |
|---|---|---|
| 敷居が高い(本来) | 不義理・不面目があって行きにくい | 相手への後ろめたさがある場面 |
| ハードルが高い | 条件・難易度が高くて達成しにくい | レベルや要求が高い場面全般 |
| 格式が高い | 格式・品格が高くて近づきがたい | 高級店・名門組織など |
| 気後れする | 自信がなくて気おくれを感じる | 自分の力不足を感じるとき |
| 頭が上がらない | 相手に対して引け目・恩義を感じる | 恩があって対等に振る舞えないとき |
「高級なお店に入りにくい」という場面では、「敷居が高い」より「ハードルが高い」「格式がある」「気後れする」のほうが正確に意味が伝わります。一方、「あの人への不義理があって顔を合わせにくい」という場面では、「頭が上がらない」「気まずくて会いにくい」なども近い表現です。
「敷居を下げる」という新しい表現
「敷居が高い」から派生した「敷居を下げる」という表現も、ビジネスや日常会話で耳にするようになりました。「〇〇の敷居を下げる(=気軽に利用できるようにする)」という意味で使われており、三省堂国語辞典でも注記として記載されています。この用法はすでに「高級で入りにくい」という誤用側の意味を前提としており、本来の意味(不義理による行きにくさ)とはかけ離れていますが、ビジネス文脈では定着が進んでいます。
「敷居が高い」と「気が置けない」の誤解パターン
「高い=格式がある」という誤解と似たパターンで、「気が置けない」も正反対に誤解されやすい言葉です。「気が置けない友人」は「遠慮なく付き合える親しい友人」を意味しますが、「気が抜けない・油断できない」と誤解されるケースが多く、文化庁調査でも約半数が誤用していることが明らかになっています。日常語の正しい意味は、意外なほど辞書の記述と実際の使われ方が乖離しているものです。
まとめ
「敷居が高い」についての要点を整理します。
- 正しい意味:不義理や面目のないことがあって、その人の家・場所に行きにくい(後ろめたさが前提)
- 語源:玄関の敷居(横木)という建築用語に由来。入りにくい物理的イメージから心理的な障壁の比喩へ
- 誤用の実態:文化庁調査(令和元年度)で正用は29.0%、誤用(高級で入りにくい)は56.4%。平成20年度と比べ正用率が13ポイント以上低下
- 辞書の変化:広辞苑第七版(2018年)で「高級で入りにくい」用法が追加。大辞林第4版は「本来は誤り」と注記を維持
- 正しく使える場面:相手への不義理・無沙汰・借金・謝罪未了など、自分に後ろめたさがある状況
- 言い換えの目安:「高級で入りにくい」なら「ハードルが高い」「格式がある」、「気後れする」が正確
「敷居が高い」は、使う場面によって「自分が相手に申し訳ないことをした」というニュアンスが自然に伝わる言葉です。正しく使えれば、日本語の繊細な人間関係の機微を表現できます。一方、誤用が多数派となりつつある現状では、文脈によっては意図が伝わりにくいこともあります。大辞林の注記を参考にしながら、場面に応じて「ハードルが高い」「格式がある」などの言い換えも活用してみてください。言葉の正しい意味を知ることは、相手に誤解されないコミュニケーションの第一歩です。







